chiemitabi

大いなる懐にて抱かれし、真我の道を歩む成りけり

亡き父

父が亡くなり、先日で20年が過ぎました。肉体を持った父とときに話したくなることがあります。(笑)そう思うのは、思えるのは

「いま」のわたしと、父は当時であっても、もっと(笑)おもしろかったろうなあ、と、思うときがあるからです。(欲たけですね。)

肉体を肉眼で、お会いすることはできませんが、お会いしたくなると、わたしのなかに、いつもいてくださいます。そして、わたしたちは、生きているうちに、たくさん笑いあいました。

よく笑う父でした。そして、よく話しを聞く人でした。

若かりし頃、いつ頃でしたか、わたしは、怒鳴っていわなくとも、静かに話しても理解できる人だけどなあ、と自分のことを云ったキオクがあります。

そうかははかり知れませんが、父は、ひとりの存在として、たててくださるようになったキオクを感じております。

「ちえみ、ちょっと、いいがあ?」「例えば、家を建てるとする。そうしたときに、ひとりひとり間取りも違うべえ。また、20代の間取りも聞ぐがら。40代の間取りも聞いでけられっか?」と話しのたとえを出して、よく話しをさせてもらったこと。

また、こんなことがありました。

(当時、わたしの通う小学、中学校は学年があがると2階、3階と教室になっていました。) にんげん、じんせい、はしりっぱなしは息きれるがもしんにぇべえ。学年が、1年生から2年生の教室さいぐ階段のあいださ、たいらなおどり場があるように。次の階級さいぐどき、次の段階さいぐどき、学校の階段思い出すどいい。

とそのとき、勢いゆくわたしをみて、そのようなたとえを出して、わたしに教えてくれていました。

ときおり、わたしの宝箱・宝石箱のなかから思い出すひとコマであります。

たくさんの愛を

ありがとう。ございます。

 

旅(人生)の空から大地から

たかはしちえみ

 

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