chiemitabi

大いなる懐にて抱かれし、真我の道を歩む成りけり

「ながれ」そして「とき」

わたしを含め人にも、さまざまな、「とき」「ながれ」、というものと
出会うことがあります。

また、人には、目のまえの状況やこと、ものが
異なる、時期、こと、もの、と、
この道中に(ひとりひとり、個々の人生)あったり、することが
あることをも知っておく、いる必要がわたしには、あります。

 

そうしたなか、先日、18年ぶりに来県されたご夫婦と、
ご家族とご一緒させていただいておりました。

 

 

人は「とき」を刻み、
それぞれの場で、日々を送り、過ごされ、
そして、この道中(人生)で、この地で
再会できましたこと、運びとなりましたこと
亡き父同士、これまでの母同士のつながりや
こころ添え、こうして、再会を果たし、
「とき」は、「いま」に集中し、
「いま」という、この空間でアップデートをされた、される
「瞬間」「このとき」を、実感させていただいておりました。

 

「いま」、「この瞬間」という空間は、
これから、あるいは、今後という空間のひとつの点として
存在したり、あるいは、養っていったりと、
積んでゆく。積まれてゆく。点であるということも。
また「いる」ということも認識されますが。あるいは、
創ってゆける、あるいは、創っている、あるいは創るということを、
学んだ、学んでいたように実感しておりました。

 

「いま」の自分が、実は、未来の自分を創る。ということを
実感しつつあった日々でした。その「いま」も
一瞬、一瞬の「いま」を自身が、更新して「ゆく」「ゆける」
ということも創って「いる」ということをも実感させていただいて
おりました。

たいせつな要因です。

 

こうした日々のなかから、気づいて「ゆく」こと。
「ゆける」ことが、宝石箱のように散りばめて「ある」という
ことも教わってゆきます。

 

 

そのおかあさんは、毎年のように、墓石に手をあわせに
いらっしゃられます。
ご家族とともにお寺に行かせていただき、また神社にも
ご一緒し、手をあわさせていただいておりました。

 

いま、あらゆるところへ隅々に
手をあわせ

 

 

 

 

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