chiemitabi

大いなる懐にて抱かれし、真我の道を歩む成りけり

亡き父

「亡き父」「父」のお題で、綴らせていただいていること
幾度あったでしょうか。(笑) また、この年度末に
この時期に、このいまに、記載をさせていただきます。

時に触れ、折に触れ、節に触れ、触れさせていただく存在に
在ります。(笑)

生きているあいだに、たくさんの関わりと
たくさんの話しと、たくさんの問合いと、
たくさんの間合いと、たくさんのこころとを
頂だいしました。

 

「たくさん」といいましても、「たくさん」という表現のなかにも

わたしのなかでは、
「そこ」には、「数」や「べたつき(笑)」といった具合でもなく
「そこ」には、「関わり」のなかの「意味」や「中身」
あるいは、「深み」「笑い」「あたたかみ」「きびしさ」
「つよさ」「やさしさ」「たのしさ」といったものが、存在が

わたしのなかに、含まれておりました。

 

生きているあいだの関わりと、
生きているあいだの教えと、
生きているあいだの間合いと、
生きているあいだの慶びを、

どれくらい、いただきましたでしょうか。

そうした父も、すでに亡くなって早20年になりますが、
いくつになっても、わたしのなかで、わたしのなかに、
存在している方でもあります。

 

亡くなってからも、わたしのなかに(笑)、
息づく、息づいている、ということを、教わります。

そして、わたしは、この方から、生ききる、ということを
教わってきました。

 

そして、これからも、その意志は、
引き継がれて(笑)ゆこうことかと思います。

 

そのようななか、山形で、
わたしは、草木塔をよく目にする、させていただくことが多く
あります。先日、足を運ばせていただいたところでも。
そのような写真を 亡き父 という
お題に、そっと、添えさせていただきます。

 

この記事をあがる、頃には、瞬間には、
朝方の雪から、お天道様が顔をみせてくださっています。
「いま」。

 

 

chiemitabi

 

 

 

 

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