chiemitabi

大いなる懐にて抱かれし、真我の道を歩む成りけり

越後瞽女唄へといざない

土礼味庵さんでの越後瞽女唄へと、足を運ばせていただいて
参りました。

三味線の「おと」も、わたしにとって、okusoko(奥底)に
響く、響いてくる、届く、届いてゆく
ひとつの「楽器」とも存在します。

ことば「一文字」が違って「いる」ことにも、大きな「意味」
あるいは、「立つ位置」あるいは、自身の「状態」なども
変わって「くる」という「こと」が日々のなかでも存在します。

 

三味線にいたしても、その楽器の類には、
土地によっても、文化によっても文明によっても、
「それぞれ」の「土地」が醸し出す
「もの」「こと」「おと」「かたち」が存在いたします。

このような、こうしたことは、
三味線「だけ」の「もの」「こと」「おと」だけといったことでは
ないかとも思われますが

それは、「さまざま」な領域や分野や文化によっても、
また、その地方により、気候風土により、
また、存在する、してきた「智恵」や「工夫」が
生まれて「きている」「きた」ことも、大きな「存続」「存在」とも
「価値」とも放ちて「いる」のはないでしょうか。

 

媒体が「ちがって」いるだけで、いることで、
「そこ」に「ひろがって」「いる」ものは、「いく」ものは
共通して「いる」もののようにも、わたしは受け取らせて
いただいて「いる」ことにも在ります。(笑)

誰もがもって「いる」
okusoko(奥底)に存在して「いる」かの如し とも
思っているからで在るでしょうか。

次は越後瞽女唄をいざない 綴らせていただいて参ります。

 

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